ポル・ポトとは

共産主義への傾倒

ポル・ポトは、1928年の5月19日に「フランス領インドシナ(現在のベトナム・ラオス・カンボジア)」の「プレク・スバウヴ(現在のカンボジア王国コンポントム州)」に生まれました。
当時のカンボジアのなかでは、裕福なほうに含まれる家庭で、従兄弟が王の側室になるなど、王宮とも関係のある家庭でした。

幼少期は、慣例に従い読み書きを習うため、6年間プノンペンの寺院で暮らし、当時の宗主国だったフランスのパリに留学します。

1949年パリに渡ったポル・ポトは、エリート養成大学のひとつである「フランス国立通信工学校」に入り、2年間の技術課程を学びました。
そして、この留学中にポル・ポトは、共産主義者となり「クメール共産主義グループ」に参加しました(クメールとは、クメール人のことで、カンボジアを中心とする東南アジアの民族)。
そしてポル・ポトは、内部機関紙に「中国革命」についての記事を寄稿したり、スターリンの共産党をコントロールする手法に感銘を受けたりしました。
こうして、共産主義運動に傾倒していったポル・ポトですが、学業のほうでは、3年連続で試験に失敗し、奨学金を打ち切られたので、1952年の終わり頃にカンボジアへ帰国しました。

政権奪取まで

1954年には、フランスが、仏領インドシナを去ります。
1955年には、カンボジアの国王ノロドム・シハヌークが、王位を父に譲って退位し、自ら首相となるための政治的基盤として「サンクム(人民社会主義共同体)」を、総裁として結成しました。
そしてシハヌーク総裁は、共産主義などの反対勢力を一掃して、1955年に実施された選挙で、議席のすべてを獲得しました。
こうしてシハヌーク体制が続いていましたが、ベトナム戦争によって状況は次第に変化していきます。

1970年3月に、シハヌーク国家元首が、中国訪問している隙をついて、アメリカの支援をうけたロン・ノル将軍が、クーデターを起こし、カンボジア国会でシハヌークの退位を決議させました。

ポル・ポトは、帰国後は国内での共産主義への弾圧から逃れて、活動ををつづけていました。
1965年には北京を訪れた際に、鄧小平や劉少奇などの中国共産党の幹部たちと一緒に仕事をし「カンボジア労働者党」は、中国共産党の支配下に入りました。
1966年には、党名を「カンボジア共産党」に変更しました。そして、このカンボジア共産党は、のちに「クメール・ルージュ」として知られるようになっていきます。

クメール・ルージュは、共産主義への弾圧が激しい都市部では活動できなかったので、カンボジア東北地方のジャングルに拠点を構え、訓練や指導をおこないました。
この時期は、他の左翼集団と連絡をとるのは容易ではなく、ポル・ポトの1977年の発言によれば「連絡のためには徒歩で行ったり、象の背中に乗って行かねばならず、また、連絡用ルートを遮断した敵を避け続けねばならなかったので、1ヶ月が必要だった」ということです。

ポル・ポトにとっては、こうした状況下で、先ほどのロン・ノル将軍によるクーデターが起こったのです。

カンボジア議会の決議によって、追放されたシハヌーク元国家元首は、とりあえずはそのまま北京に亡命します。
しかし、シハヌークは挽回をはかるために、敵対していたポル・ポトに接触し、共闘関係を築きました。
このときポル・ポトは、元国王の支持を取りつけることで「自らの正当性を主張できる」と考えました。

1970年、ニクソン大統領は、(北ベトナム軍とつながっている)カンボジアの共産主義勢力を一掃するために、ロン・ノルのカンボジア軍と協力して、カンボジア東北地方の都市部や農村に、空爆をおこないました。
これにより、インフラは破壊され数十万人が犠牲となり、この空爆開始から1年半で200万人が国内難民となる状況がうまれました。
そしてロン・ノル政権は汚職にまみれていたため、国民のあいだには不満がたまり、クメール・ルージュへの人気が高まっていきます。
こうしてクメール・ルージュは加入者が増えていき、ポル・ポトの勢力拡大につながっていきました。

1973年には「パリ協定(ベトナム戦争終結と平和回復に関する協定)」によって、アメリカ軍がベトナムから撤退しましたが、カンボジア政府軍とクメール・ルージュとの戦いは継続されました。

1975年4月17日、ついにクメール・ルージュは首都プノンペンを占領しました。
ロン・ノルはアメリカへ亡命したのですが、逃げ遅れたロン・ノル政権の閣僚たちは、プノンペン陥落直後に「敵軍掃討委員会」に身柄を拘束され、全員処刑されました。
他にも政治家・高官・警察官・軍人ら700人以上が殺害され、遺体は共同墓地に投げ込まれました。

ポル・ポトはノロドム・シハヌークと「売国奴」としてリストに名を挙げた、少数の人物のみを処刑すると約束していましたが、この約束が守られることはありませんでした。

ポル・ポト政権誕生

クメール・ルージュによるプノンペン占領後すぐは、都市部の住民たちは、ロン・ノル政権を倒したクメール・ルージュを歓迎していました。
しかしクメール・ルージュは、都市部の住民を農村での食糧生産に、強制的につかせるために「アメリカ軍の空爆があるので2、3日だけ首都から退去するように」と伝え、都市居住者を地方の集団農場へ強制移住させました。
農村の住民もそれまでの住宅を奪われ、全人民がサハコー(人民公社)といわれる、幅2メートルから4メートル、長さ3メートルから6メートルの、電気もラジオも水道もない小屋に、男女をわけて強制的に移住させられました。
生存者の証言によりますと、病人・高齢者・妊婦などの弱者に対しても、クメール・ルージュは全く配慮をしなかったそうです。これは、近代化してきた世界の歴史からみると、とてつもない状況だといえます。

ポル・ポトは、クメール・ルージュが全権掌握し、国名を「民主カンプチア」としたあとも、ジャングルからは出ずに、シハヌークを傀儡政権として操ろうとしますが、シハヌークは、君主制を回復させようとします。
もちろんクメール・ルージュはこれを無視し、ポル・ポトの真意を悟ったシハヌークは、粛清を恐れておとなしくしましたが、王宮に監禁され国家元首の地位も奪われました。

1976年5月13日、ポル・ポトは、民主カンプチアの首相に正式に就任し、徹底的な国家の改造に着手しました。
ポル・ポトは、中国の毛沢東主義の影響をうけ、理論上は、原始時代に存在したとされた仮説にすぎない「原始共産主義社会」を再現させ、資本主義はおろか、都市文明を徹底的に廃絶しようとしました。
民主カンプチアのもと、通貨の廃止、私有財産の没収がおこなわれ、教育や医療も否定され、国立銀行や国家機関は、そのすべてが廃止されました。
さらには「国家無神論」にもとづいて、国家の伝統的宗教(上座部仏教)からキリスト教、イスラム教などのすべての宗教が禁止され、少数民族は存在自体が禁止されました。
家族の形態も解体され、クメール・ルージュの許可がない、自由恋愛や結婚も禁止されました。

このような体制となった、民主カンプチアは、深刻な食糧危機に見舞われます。
都市部の市民を農村部に強制連行し、劣悪な環境下で朝5時から夜10時まで働かせましたが、近代的な機械は、資本主義文明の象徴として使用せず、すべてを手作業でおこないましたので、生産力はたいして見込めませんでした。
さらには、こうして生産された農作物を、海外からの武器の調達資金をえるために輸出しました。
もちろん強制動員させられたのは、農業だけではなく、運河やダムの土木工事などにも、過酷な状況での強制労働がおこなわれました。

こうして民主カンプチアの民は「1日2杯のおかゆ」だけしか許されない食生活と、劣悪な労働環境で、飢餓、栄養失調、過労による死者が続出しました。

ポル・ポトは、このような惨状を目の当たりにし、政策の失敗の原因や、政策そのものを問題とするよりも、カンボジアやクメール・ルージュ内部に、裏切り者やスパイが潜んでいるためであるとして猜疑心を強めていきました。
このような猜疑心は、のちに展開される党内での粛清、カンプチア人民への大量虐殺などの、大きな要因の一つとなります。

加速していく虐殺

民主カンプチアは「腐ったリンゴは、箱ごと捨てなくてはならない」と唱えて、政治的反対者を虐殺していきました。
国民は「新人民」と「旧人民」にわけられ、プノンペン陥落後に、都市から強制移住させられた新参者の「新人民」は、たえず反革命の嫌疑をかけられる一方で、長期間クメール・ルージュの構成員だった「旧人民」は1976年まで共同体で配給を受け、自ら食料を栽培できました。

ポル・ポトを含む、クメール・ルージュの幹部の多くは、高学歴でインテリ出身でしたが、高度な知識や教養は、ポル・ポトの愚民政策の邪魔になることから、医師や教師、技術者を優遇するという触れ込みで自己申告をさせて、別の場所へ連れ去ったあとに殺害しました。
やがて連れ去られた者が、全く帰ってこないことが知れ渡るようになっていくと、教育を受けた者は、事情を察し、無学文盲を装って「命の危機」を逃れようとしましたが、眼鏡をかけている者、文字を読もうとした者、時計が読める者など、少しでも学識がありそうな者は片っ端から殺害されました。

こうしてプノンペンは、飢餓と疾病、農村への強制連行によって、ゴーストタウンとなった一方で、知識人は見つかれば殺害されました。
ポル・ポトは「資本主義の垢にまみれていないから」という理由で10代前半の無垢な子供を、重用するようになり、少年兵を操り、子供の医師も存在しました。

1978年12月25日、ベトナムに避難していた、カンボジア人によって構成される「カンプチア救国民族統一戦線」が、ベトナムの援助をうけて、カンボジア国内に侵攻を開始しました。
こうして「カンボジア・ベトナム戦争」が勃発しました。
ポル・ポト政権の「カンプチア革命軍」は、粛清の影響による混乱で指揮系統が崩壊していましたので、わずか2週間で、カンプチア革命軍の兵力は半減させられました。
1979年1月7日、ベトナム軍がプノンペンに入り、ベトナムの影響の強いヘン・サムリン政権「カンボジア人民共和国」が成立しました。
このあとベトナムは、カンボジアを完全に影響下におき、長期間にわたって、その影響力を保持することになっていきました。

ポル・ポト政権崩壊後

こうして、政権を倒されたポル・ポトとその一派は、タイの国境付近のジャングルへと逃れて、採掘されるルビー売買の利権を元手に、反ベトナム・反サムリン政権の武装闘争を続けました。

1997年にポル・ポトは、政府との和解交渉を試みた腹心と、その一族を殺害しました。
しかしその後、クメール・ルージュの軍司令官の手によって「裏切り者」として逮捕され、終身禁錮刑(自宅監禁)を宣告されます。
1998年4月15日にポル・ポトは、心臓発作で死去しました。
しかし遺体の爪が変色していたことから、毒殺もしくは服毒自殺の可能性もあるといわれています。
そしてポル・ポトの遺体は、兵士によって古タイヤと一緒に焼かれ、そのままその場所に埋められました。

この火葬には、ポル・ポトの後妻と、後妻とのあいだに生まれた1人娘が立ち会いました。
後妻と娘は「世間が何と言おうと、私達にとっては優しい夫であり、父でした」と語ったそうです。

以上でおしまいです。
アジアを代表する虐殺者「ポル・ポト」でしたが、いかがでしたか?

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